Official Website

 

Shop


「The Final Crash: Addictive Debt and the Deformation of the World Economy」
Hugo Bouleau (著)
Kanji Ishizumiが主催する政治、経済、文化、哲学の勉強会丸の内スクエア・アカデミーのサイトにて販売中です。

 

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

recommend

+RECOMMEND
+BOOK
これならわかる実践M&A事典
「会社合併実務の手引」(新日本法規出版)
+BOOK
これならわかる実践M&A事典
「これならわかる実践M&A事典」(プレジデント社)

目次

 

Globalizationと宗教について

日本人の多くはGlobalizationと宗教が矛盾すると思っているかも知れない。しかしそれは大いなる誤謬である。
 
宗教色がなく、標準化され、無色透明であり、どこにでも当てはまるものがGlobal Standardだと思っていればそれは日本人の間違った思い込みというよりも、日本人がむしろ騙されているからだと私は思う。
 
どこにでも通用するようにModule 化され、共通化され、単純化され、規格化されたものがGlobal Standard、Globalizationだと日本人は思い込まされているのではないだろうか。実は最もLocalで、最も偏狭で、最も部族的で、最も宗教的で、そして最もAnti-Globalなものが世界に広まるということに日本人は気付いていない。
 
世界の3大宗教、ユダヤ教、Muslimイスラム教、そしてキリスト教は徹底的にAnti-Globalな宗教である。これに対して日本の宗教と言える仏教は異宗教、異人種に対し寛容で柔軟であるから、最もGlobal な宗教である。
 
しかし、ユダヤ教も、イスラム教も、キリスト教も仏教に比べると圧倒的に世界中に広まっている。ユダヤ教は、徹底的にユダヤ的で一切の異物を受け付けないのに、そのヘブライ聖書がほぼ全世界の人々に読まれているGlobal宗教である。
 
Module 化され、単純化され、共通化され、標準化され、違うものに対し寛容なものは実はGlobalizeしないのである。それは何故であろうか。魅力がないからである。
 
ならば仏教が何故世界中に広まらなかったのか。それはキリスト教と対比して異端を排除する強烈な自己主張の存否という違いがあるからである。仏教には異端を排除する強烈な自己主張の存在があまり見られない。仏教は全てに関して寛容で心が広い。
 
これに対してユダヤ教、イスラム教、キリスト教は強烈な自己主張と異端排除をその原点としている。その共通するところは偶像崇拝の禁止である。
 
一方仏教は偶像崇拝宗教である。仏像を信仰する。これに対してMuslim、ユダヤ、そしてChristianity、特にProtestantは偶像崇拝を禁止する。偶像を崇拝しないということはこれら一神教の共通の最大の原理であるが、それ故に神の存在が徹底的に抽象化される。それが一神教である。
 
これに対して仏教は偶像崇拝教であり、具象である仏像を崇拝する者は人種、肌の色、考え方、生き様、住んでいる所を問わず救われるとする為にGlobal化しない。
 
矛盾した言い方であるが、抽象的で排他的なものほどGlobal化し、具象化、具体的、すなわち偶像崇拝的、寛容的、柔軟なものはGlobal化しないのである。
 
抽象のものこそGlobal化し、具象のものはGlobal化しない。これは絶対の原理である。
 
いかに抽象のものに徹底できるか。それは「How」と「Why」と「What」の重点の置き方の違いである。
 
偶像崇拝者すなわち日本人などは偶像すなわち具体的なものに目が捕らわれるために、「What」、「How」、「Why」の中でどうしても「What」に重点が移って来る。せいぜい行ったところで「How」である。何をどう作るか、何をどう売るかというところに留まってしまう。
 
これに対して一神教すなわち偶像崇拝を徹底的に排除する宗教を信仰する者達は、その抽象性を追求するあまり何故神が存在するのか、神とは何故かという「Why」を常に思考の原点に置く。この違いがGlobal化の違いとなってくる。

日本人は宗教心がないとか部族性がないということはない。
 
上に述べた通り日本には仏教が根付いている。そして日本列島に住む単一民族という部族性もある。ただ日本発のGlobalizationというものが世界的に見てほとんどないのは何故であろうか。
 
例えば日本発のガラケーはガラパゴス化して日本から外に出ていない。これに対してiPhoneは完全にGlobalizationを成し遂げている。
 
実はSteve Jobsの持っていた“強烈な自己主張”が日本のガラケーにはなくiPhoneにはある。これがGlobalizationの秘密である。強烈な自己主張、つまり強烈な宗教的信仰心、強烈な宗教へのこだわり、これがiPhone Global化の根源、源泉になっているのだ。
 
つまり、何故iPhoneでなければならないのか、何故iPhoneは世界中の人に受け入れられるのか、何故世界中の人に受け入れられる為にはどうあるべきか、という「Why」の徹底的な議論からiPhoneは生まれている。
 
これに対して日本のガラケーは便利な機能を持たせる為にはどんな部品をどのように組み込めば良いのかという「What」、「How」の議論から設計されている。この違いである。
 
ユダヤ教やMuslim、Christianityは偶像崇拝を徹底的に禁止する(Catholicはそうでもないが)為に神の存在というものが徹底的に目に見えないもの、抽象的なものになってくる。
 
これに対して日本の仏教は偶像崇拝を中心にする為に神の存在が仏像、彫像、偶像、仏様のお姿という具体的なものになってくる。従って人々の信仰心は偶像、仏像の眼の形、手の様子、唇の開き方、などという具体的な目の前のもの
​、つまり「What」に向けられる。

これに対してユダヤ教、Muslim、キリスト教は抽象的な神の存在を頭の中でこねくり回して考えなければいけない。


この一神教と仏教という偶像崇拝教の違いが実はガラケーとiPhoneの違いなのだ。
iPhoneを生んだユダヤキリスト文化は全て「Why」から始まる。何故イエス・キリストはこの地に降りられたのか、何故イエス・キリストは十字架に磔にされたのか、何故ユダヤの神はこの宇宙を創造されたのか、何故ユダヤの神はバベルの塔を壊されたのか、云々かんぬんと「Why」の議論が中心になる。
従ってiPhoneを設計するに際しても当然、何故人々は通信をしたがるのか、何故人々はConnectedであることを望むのか、何故人々は便利さを求めるのか、何故人々はグラハム・ベル(Graham Bell)が発明した電話を各家庭に引いているのか、という「Why」の議論から始まる。

 
これに対して日本の企業は、便利な機能は何か、と「What」の議論から始まる。
 
実は「What」の議論をする偶像崇拝民族のApproachはGlobal化しないのである。「Why」の議論から始まるユダヤ教、キリスト教、MuslimのApproachはGlobal化するのである。
 
一言で言えば、抽象的なものはGlobal化し、具体的具象的なものはGlobal化しないのである。
 
最近日本ではIsrael のInnovation Boomで、次から次へとIsraelに産業界、経済界、政界、学会がMissionを送り出してきている。Israel現地の日本の大使館の職員はこの対応に追われててんてこ舞いである。
 
しかし彼等は全員1週間から2週間のIsraelの滞在でIsraelのInnovationの秘密を探ろうとしているが、全てIsraelの「What」、Israelの「How」を探し求める為に来ているようだ。IsraelのどこがInnovativeで、IsraelがどのようにInnovation大国になったのか、「What」と「How」ばかりを探そうとしている。
 
元々日本の経済人や日本の実業家の頭の中にはこの「What」と「How」が強く刷りこまれている為に、どうしてもInnovationと言えば「What」と「How」だけに目が行ってしまう。
 
IsraelのMobileyeはどんな技術を持っているのか、「What」。IsraelのMobileyeの研究はどのように成し遂げられたのか、「How」というものを一生懸命探ろうとするのが日本人の経済人、実業家、そして政治家の見学ラッシュである。
別に我々は隠している訳ではないが、「What」と「How」にはユダヤ人が何故Innovativeか、何故世界の科学技術を数千年にわたってLeadして来ているのか、の秘密は隠されてはいない。
 
ユダヤ人がInnovativeであり、Israel が建国僅か80年の間に世界のInnovationをLeadするようになったのか、それは元々Innovativeなユダヤ人がIsrael に集まって来たからに過ぎない。そして元々Innovativeなユダヤ人は何故Innovativeかのという秘密を日本の経済人は探ろうともしないし分かろうともしていない。
 
彼らの頭の中には「What」と「How」が詰まっており、それ以上に頭が働かないからだ。Innovationの技術は何か、そのInnovationはどうして生まれたのか、の「What」と「How」だけを探る為にせっせせっせとIsrael にMissionを繰り出しているが、その姿は愚かですらある。
 
その日本人に徹底的に欠けているものは「Why」の思考である。「Why」の思考こそ偶像崇拝を禁止する一神教の根幹なのだ。
 
一神教であるユダヤ教が何故偶像崇拝を禁止するのか。強烈な宗教原則だからだ。それは「What」と「How」に捕らわれてはいけないという強烈な宗教原則だからだ。
 
偶像崇拝を禁止する一神教、Muslimもそうだし、キリスト教もそうだし、その中心になるユダヤ教は「What」と「How」に捕らわれない人間を創る為に神がつかわされた一神教だからだ。
 
神はこう思われた。「What」と「How」に捕らわれる人間が生まれると物欲、競争心、羨む心、比較心が生まれ、神が何故この宇宙を創造されたのかという根源的な問題に目が行かなくなってしまう。そのような人間ばかりが生まれればこの世は欲に満ち、人の物を奪おうとし、争い事に満ち満ちる人々に満たされる。それを神は恐れられて偶像崇拝を禁止し、「What」と「How」とだけを頭の中に人間が詰め込まないようにされたのだ。
 
日本の自動車業界は自動運転技術の開発に躍起になっているが、それはGoogleが自動運転をその企業目的に取り上げてから既に10数年の時間が経過している。そしてそれがどうもGlobal Standardになりつつあるということで慌てて後を追いかけているにしか過ぎない。結局「What」と「How」を頭の中に詰め込んでいる日本の企業人は人の物を羨むという心から来ることに振り回されることになる。
 
ユダヤ人であるGoogleの創業者の二人がCaliforniaの上空を飛行機で飛んでいる時に眼下に見える高速道路にぎっしりと詰まっている渋滞の車列を見て、何故人々は車の中にかくも閉じ込められている時間が長いのか、何故人々は車を運転するのか、何故交通事故はなくならないのか、何故人が車を運転しなくてはならないのか、何故道路があるのか、何故交通法規があるのか、という「何故」に思いを巡らせたうえで至った結論が、「人が車を運転するべきではない。人工知能が車を運転すれば人は車の中に閉じ込められることもなく、人が運転するよりも事故が圧倒的に少なくゼロに近くなり、そしてより環境に優しい電気自動車が最も自動運転に適している」という結論に達し、Googleが自動運転の研究を始めたのが世界で最初である。これも「何故」の思考から生まれている。
 
日本の企業人にはこの「何故」の思考から生まれるものが石角完爾の目にはほとんどないように思われる。
 
この「何故」の思考こそ偶像崇拝を禁止する一神教の根源なのだ。そして、この「何故」の思考こそ国境という垣根を越え、大陸という地理的制限を越え、最もGlobalに広まり受け入れられるものなのである。
 
「何故」の思考の起源は偶像崇拝を禁止する一神教にある。そして、この「何故」の思考こそ最もGlobal化するものなのである。
 
そして人間が「何故」を考えるように神が人々を創られ、天地を創造されたと考える一神教、すなわち偶像崇拝禁止の宗教が根幹にあってGlobalizationがうねりのような力を持って現代社会を導いていることに、日本の企業人、企業家、銀行家、実業家は気付いておらず、偶像崇拝者の目で「What」と「How」ばかりを追い求めている姿は滑稽ですらある。

  • 2017.08.25 Friday
  • -
  • 00:35
  • -